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前編

 九月も残り少ない、気だるい暑さの中に涼しい風を感じる季節。
 聖イルミア学園では生徒会選挙を迎え、学内の雰囲気は盛り上がりつつあった。──が。
 役員募集最終締切日においては教師の方が生徒より落ち着かない様だった。
「高瀬君、どうかな……もうここら辺で打ち切りにしては」
 目が何度も時計と特定の生徒の間を往き来している。
「……何を焦っていらっしゃるんですか」
 現生徒会長・高等部三年生の織田信忠は呆れたように教師に紙コップのコーヒーを渡した。
「焦ったって仕方ないでしょうに……それとも何か意図でもあるんですか」
「そう言えば……浅野はどうしたんだ。また居ないのか」
 教師はばつの悪そうな顔を在らぬ方角にそらし、コーヒーに口をつけ……露骨に表情を歪めた。
「ああ……副会長はご用事です。今日の約束は大事らしいですね。何も言わずに委任状だけ置いていきました」
 この生徒会に集まってくる生徒は殆どの教師にとっては苦手な部類の人間だった。こんな役目、早く辞めたいのだが……既に就任して九年目。他の同僚も同じくやりたがらないのだ。
 そして……生徒会顧問としての、毎年毎年繰り返される悪夢は今年もやはり訪れる様だった。
「きっちり待ちましょう。その方が間違いが無くていい」
 生徒会長候補・高等部一年A組二十四番の高瀬仁巳は、教師の嫌悪の表情を『ごあいさつ』用の笑顔で軽くかわしこの場をまとめる決断を下した。
──織田がさり気なく指で背中を叩く。
「はい、どうぞ」
 振り返った仁巳にコーヒーを差し出し、礼を言って受け取った後輩に、妙に甲斐甲斐しい先輩は問いかけた。
「それで? 君は誰をお待ち兼ねなのかな?」
 織田の言葉を仁巳は神妙な表情で受け止めた。
「伊達に君の先輩をやっている訳ではないんですよ」
「一本取られましたね……不覚ですよ。コーヒーに釣られてしまうとは」
 仁巳は肩をすくめて微笑った。──そのままコーヒーを一気に咽喉に流しこむ。
「嘘が下手ですね」
 後輩の言葉を呆気なく否定して空の紙コップを握りつぶし五メートル程先のごみ箱にほうる。
「ま、それはそれとして……スリルが欲しいんじゃないんですか。今時信任投票なんてあってなきがごとしですし……ましてや今年は役職のダブりどころか足りないところすらありますからね」
「それも……ですが」
 高瀬家──つまりは仁巳の家は事業家・高瀬克哉を当主とする日本有数の財閥である。その長男であり御曹子である仁巳を一年生であるにもかかわらず生徒会長に立候補させる学園側の思惑。ろくでもないものと相場は決まっている。
 だが、仁巳は敢えて他人の利益の問題など口にはしなかった。自分にはもっと興味のあることがある。
「恐らくまたあいつが勝負しに来てくれるでしょう。……今度は五分五分じゃないですかね」
「おやおや」
 織田がくすくす嗤う。
「高瀬くんにしては弱気ですね」
「決まり切った勝負は興冷めします」
「……まぁ……ねぇ。彼でしょう? 因縁の幼馴染み……ちゃんと手加減してあげるんですよ」
「他に本気で相手出来るヤツなんかいませんよ」
「負けたことなんかないくせに。……まぁ、適当にね」
「何だって?」
 思いがけない処から声が上がる。隅で静かに我が身の不幸を儚んでいた生徒会顧問のものだった。
「あいつが立候補するのか?」
「お気付きじゃなかったんですか。僕を推薦なさったときに」
 あっさりと仁巳が切り返し……教師の顔はただ一つの誤算に見て判る程に蒼ざめ──生徒会室にいる生徒ほとんどが鎮まりかえる。
 仁巳の言葉の意味を知らない者は高等部だけでなく中等部も含めていないのだ。
 鎮まりかえった中に階段を駆け下りる足音が微かに響き……段々と大きくなる。
「ご到着のようですよ」
 織田の台詞の後半をドアの開いた派手な音がかき消した。
 入ってきたのは割と大柄な、だがスマートで意志の強そうな瞳の持ち主だった。地下にある生徒会室まで三階分の階段を駆けおりてきて息を切らせていたが、
「いらっしゃい。お待ちしておりましたよ」
 仁巳の明らかに面白がっている口調に、
「うるせーな……お前を待たせる様な用事を作った覚えはない」
 すぐさま切り返した。
「ドアは静かに開けて、入ったらすぐ閉めるものだって何度言いましたっけ?」
「それとこれとは……」
「ちょっと御免」
 『笑顔』と言う名の無表情で織田が二人の仲介に入る。
「口喧嘩はしばらくそこの棚にでも上げといて、一年の運動部部長くん、希望の役職と学年組番号名前を言ってもらえますか」
 生徒会室への乱入者は、あ、はいと返事をしてから名乗りをあげた。
「会長立候補の、一年A組十番片桐護です」
 再び仁巳の方を見遣ったが、何もいいそうにないのを確認して護はそれまで半分開けっ放しだったドアを閉めようとした。
(あれっ?)
 微かにドアが抵抗する。アルトの声が聴こえた。
「あの……すいませんっ」
 視線を六十度ばかり下に下ろす。小柄な少年が護を見上げていた。
「御免なさい……入ってよろしいんですよね」
「あ……悪い」
 少年が通れるだけのスペースを作ってやる。
「どうぞ入ってください」
 織田が声をかけた。
「はい、失礼します」
 少年は恐縮したかの様に返事すると音も立てずに入ってきた。
 一瞬、室内のざわめきが止まる。
「あの……何か」
 おずおず尋ねるまでその場に居た者の視線は少年に釘付けになっていた。織田だけが相も変わらず笑顔で応対した。
「いいんですよ……よく来てくれましたね」
「はい……お世話になります。僕なんかでお役に立てるんでしたら」
「いい子だね。……氏名と学年組番号、希望の役職を」
「はい。……一年B組一番、秋夜珠名です……あの、書記……希望です」
「書記ですね……OK。……護くん、どうしました?」
「あ、はい……いえ、別に」
 不意に名を呼ばれ、慌てて護は返事した。
 正直なところ、護は秋夜珠名と名乗った少年に見とれていた。
 だがさすがに正直には言えなかった。何事もなかった様に目をそらす。
 無理もないのだ。その少年の外見は余りにも完璧に『女の子』だった。男子制服のブレザーが男装に見える程に。
 栗色の長い、ウェーヴのかかった髪と、碧い瞳。……ハーフかな。それにしても。
 ……まさか、な。
「一目惚れですか?」
 何時の間にか、織田が横にいた。護は妙にどぎまぎするのを隠しながら、先輩に返事した。
「何言ってんですか。まだそこまで女に飢えていませんよ」
「そういえば……君には麗しのお姉さんがいましたね。お元気ですか?」
 ……へっ? 護は一瞬惚けた様な表情になった。織田がきょとんとした顔で尋ねる。
「お姉さんじゃなかったんですか? 片桐幸都子さん」
「そうですけど……何で知っているんですか」
「……色々あって。確か、女子部の生徒会の副会長ですよね、彼女。去年の総会で顔を合わせして、名簿を見たらお名前がありましてね」
 成程……ね。それだけなんだろか。それにしても……余り似ているとは言われたくないなぁ……
 からーん……からーん……
 万感の思いを込め、鐘が鳴る。
「……と、締切ですね。では今日はこれで解散とします。金曜日の放課後、またここに集まって下さい。来なかった方は棄権と見なします」
 織田が極めて事務的な台詞を述べてイベントは終わった。表情は蒼かったり、様々だが……ともかく、今日は水曜日である。

「もう六時ですね」
 織田が右手の腕時計を見て、珠名の方を見る。
「珠名くん、おうちは三丁目でしたね」
 三丁目は高級住宅街が固まっている一帯だ。
 ……ブルジョアだな。
 自分もそうそう変わらない癖に、感心してしまっている。かくいう護とて、大学総合病院の院長兼大学教授の長男である。
「護くんはどちらですか?」
「え……二丁目の端ですね」
「じゃ、珠名くんの家の近所ですね。ちょうどいい、送ってあげてくれませんか?」
「えっ?」
 思わず素頓狂な声をあげてしまう。
「……何で男を送ってやる必要があるんですか」
「この子だと襲われる可能性がなきにしもあらず、なんですよ。判るでしょ」
 わかる、……けどね。
 護は頭を抱えたくなった。織田はそんな護の様子にも構わず仁巳にも声をかける。
「仁巳くんも一緒に……どうしました?」
 仁巳は壁にもたれかかり、額に手を当て……顔がひどく蒼ざめていた。
「……すいません。急に頭痛が……」
「それはいけませんね。じゃ、君は僕が送って行きましょう。構いませんか?」
 仁巳は微かに頷いた。
「護くん、珠名くんの方をよろしく」
「……え? 織田さんっ」
 織田は仁巳に肩を貸したまま、すでに五歩前を歩いていた。
「……ったく、相変わらずだなぁ」
 溜息をついて、護は珠名の方を振り返った。
「すいません、僕なんかの為に……」
「いや、構わないよ。あいつに肩貸して帰るよりましだ。それにどうせ帰り道の途中だし……鞄取ってくる。玄関で待っててくれ」
「はいっ」
 にこやかに微笑って、軽く会釈すると珠名は駆け出した。
 しかし。護は複雑な気持ちだった。
 何で……何で、あの娘にあんなにそっくりなんだっ!
 そのまま、ぼんやり走っていく背中を見つめる。
彼を見た途端。その姿が護のかつての記憶の中に残る思い出と重なったのだ。昔、護が秘かに憧れていた女の子と。
 溜息をつき、教室に置いといた鞄を取ってぼんやり階段を下りる。
 自然と、自らの記憶を引き出した。……確かあれは、初等部五年の、夏。まだ、護はランニングシャツと半ズボンで駆けまわっていた。
 町の広場で、花火大会があった日、あの娘は見物の行列の中にいた。
 栗色のウェーヴがかった髪をゆるやかに結って、うつむいていたあの娘は、とても綺麗だった。
 護は仲間がいるのも忘れて、立ち尽していた。
 不意に、あの娘が振り向いた。
 心臓が派手に波打つのが判る。──恥ずかしかった。なのに視線をそらすことは出来なかった。
 あの娘はにっこり笑って……護に歩み寄った。
「貴方……どうしたの?」
 問いかけられても、ろくすっぽ返事出来なかった。まさか、『とても綺麗だったから』とも言えなくて。
「こんなとこに居ても、全然見えないと思うけど……ね、行こ」
 引っ張られるままに、人混みの前に行く。
「ほら、ここの方がよく見えるでしょ?」
 花火より、花火に照らされて光る、あの娘の横顔を見ていた。
 花火大会が終わり、別れた翌日から、護はその娘の行方を捜した。
 結局判らずじまいで、それっきり……けれど、その娘の笑顔は今でも忘れられない。
玄関に行くと、珠名が既に待っていた。
「あの……すいません、えーと……」
「片桐護」
「……片桐さん。少し遅かったですね……どうしたんですか?」
「護でいいよ。考え事してた」
「護さんね……、片桐護……いい名前です」
「有難よ」
 そう言われても、感謝の念はいまいち起きない……けど、義理だけでも礼を言う。女の子に言ってもらえたら、気分いいかな。
「おうち、さっき、二丁目って言ってましたね。……一等地だ」
「人のこと言えた義理か。そちらの方がブルジョアだろ」
「そうなんですか? うちの近所見てる分には、そちらの方がすごいなぁと思いますけど……おうちのお仕事は?」
「大学病院。親父が院長、お袋が婦長。秋夜くんの家は?」
 静かかと思えば、結構お喋りだ。まぁ、退屈はするまい。
「仁巳……高瀬さんですか」
「ん……そ。あのすました野郎」
「あの、高瀬さんのこと……嫌いなんですか?」
「あまり。──嫌いって程じゃないけど……
すかねぇな」
「どうして?……いい人なのに」
「いい人……」
 護は面喰らった。
「え……僕何か、……間違ったこと、言ってないでしょ?」
「いや……その言葉には、何かその……違和感が……」
「そうですか?すごく頭が良くて……優しいじゃないですか」
「何処が」
 本当は、他の生徒が護を怖れて言わないだけである。と言っても別にひどい目に遭った者がいる訳でなく、護の持つ迫力のせいなのだ。
 とすれば、この秋夜珠名という少年は大した勇気の持ち主だった。
「あの人、時々音楽室でピアノ弾いてるでしょ」
「そうなのか? 俺、音楽室ってあまり行かないからな」
「……弾いているんです。僕、時々通りがかりに拝聴するんですけど、あんな音色、冷たい人に出せる訳ない……素人ですから楽器とか、判りませんけど……それだけは判りました」
 此処まで言い切ると、珠名は慌てた様に口を押さえた。
「ごめんなさい。生意気言って……お二人のこと、まだそんなに知らないのに……」
「……いいよ。これは俺の主観であって、お前の考えとは、また違うんだろうから」
「すいません……」
 頼りなくうつむく珠名の頭を護は軽くはたいた。
「……いたたっ」
「覚えとけ。俺はあまりいじいじする奴は好きじゃないからな」
「……はいっ」
 珠名の表情が一転して明るくなった。
「……あ、わざわざ送って頂いて有難うございます。僕の家、そこですから……あの、今度明るいうちに来たら、寄ってって下さいね」
「ん……判った。そんじゃな」
 軽く手を振り、珠名の家に背を向けて──振り向くと、珠名が丁寧にお辞儀しているのが見えた。
「秋夜、珠名か……」
 ゆっくり名前を暗唱すると、護は我が家に向かって歩き出した。
 事が起こったのは、それからきっかり十分後のことだった。


 護はふと足を止めた。
 二、三秒して、同じ様にもう一つの足音が止まる。
「尾行が下手だな。ちゃんと推理小説読んでる?……俺に用なのか?」
返事は五秒後に響いてきた。
「これは。どうも、学生だと思って甘く見過ぎたらしい。お詫びさせて頂くよ。決して怪しい者ではない」
「怪しくないなら、人の前に顔出せよな」
 街灯の下に姿を映したのは、サングラスをかけた黒の三揃えだった。一八四センチの身長の護が首を六十度上げなくては顔が見えないような、大男。
 が、護は全く気圧倒れていない。
「……見た目からして……十分『怪しい』じゃねぇか」
「片桐護くんだね。J大学総合病院の御子息」
「何処の興信所の知り合いだよ」
「恐れながらも独自の情報網で。先程のご友人は水墨画の画家の御子息、秋夜珠名くん。間違っているかな?」
「……あいつに用なのか」
「いや、秋夜くんにではない。私達が用があるのは君のライヴァル君の方なのだよ」
 ……何もそんなにvの発音一生懸命しなくてもいいだろうに。
 仁巳のことで声をかけられたのも癪だったが、第六感が嫌悪感をつのらす。
 護は少し声を尖らせながら返事した。
「あいつに用で、何で俺に声をかけるんだ」
「私達は、君の生徒会長当選に協力させてもらおうと馳せ参じたのだよ」
 意外な一言に、護の眼が光る。
「君は、仁巳くんの弱味を知りたくないかい?」
「……どういうことだ」
「君は仁巳くんと生徒会長の座を争っている」
「それで?」
「仁巳君が失脚すれば、君はその座を労せずして手に入れられる」
 三揃えの台詞が終わると同時に、笑い声が響いた。
「面白い冗談だ」
 三揃えが眉をひそめる。
「気に障ったかい」
「おっさん、俺の素姓知ってても俺の性格は調べなかったな」
 不敵な視線を三揃えに向ける。
「……俺は、お前みたいな奴が一番嫌いでね」
 吐き捨てる様に言う。
「初対面の相手に見下した口きいて、喋ることって言ったら人に危害を加えることばかり。……生憎俺はお前の同類じゃない」
 後ろを向いた。
「アンフェアは嫌いなんだ。……二度と姿を見せるな」
「御再考は」
「ない」
 立ち去ろうとする背中に、硬いものが当たる。
「……御大層な主義だ」
「もう一度。藁にすがる気はないな。堅物はこの世じゃ生きていけない」
「訂正しろ。『賢い奴は藁をも掴んで助からず』って言うんだ。選択肢なんかない癖に……俺は『溺れる者』じゃねぇぜ」
「……この……口巧者な餓鬼……」
 三揃えが腕を振り上げた。
 悲鳴が上がった。
 護の鞄が宙を舞い、三揃えの顔に直撃したのだ。
 後ろによろける体に全体重を乗せた回し蹴りを躊躇無く『蹴り下ろした』……男の手にあった拳銃は優雅に円を描き、護の手中に納まった。
「形勢逆転♪」
 護は嗤って銃口を三揃えに向けた。
 護はブルジョアでも只のお坊ちゃまではない。武道に関しては幾つか段を持つ程の腕だ。
「何処へでも行けよ。これっきりだ。仁巳にも俺にも手を出すな」
 三揃えはよろよろ起き上がり……しかししっかりした口調で、
「今日は引き上げるさ。けれどリターンマッチはある……失敬」
 倒れた時にぶつけたのか額に血を滲ませたまま、三揃えは去った。
「……ありゃ何処のハードボイルドの宣伝なんだよ……」
 呆気に取られた口調で言うと、周りの気配を確かめ……奪った拳銃のシリンダーを開けてみる。
「……なめられたもんだ」
 弾丸は一発しか入っていない。──三揃えが去った後、人の気配は全く無かった。
(だけど……)
 あいつと……仁巳と、あのヤクザまがいの男との間にどういう関係があるんだ。気になる。
(明日、問い詰めるしかないか)
 命を失いそうになったんだから、問い詰めようとどうしようと構わない筈だ。
 護は拳銃をハンカチで包むと鞄の中にしまい込み、再び、歩き出した。

「欠席?」
 翌日、時間ぎりぎりに来た護は不在をきいて驚いた。
「うん。幼稚園の時から、ずっと皆勤だったんだけどな」
「ふ……ん」
 護は素っ気なく返事をすると、どっかと椅子に腰を下ろした。
「お前知らないだろうけどさ、あいつ近頃身体の調子悪かったんだぜ」
 通りがかったクラスメートが護に話しかける。
「え……そうだったのか?」
「仁巳がお前に弱味見せると思うのか?」
 ……そういやそうか。
 その日は落ち着かなかった。
 じっくり考えた末──仁巳の家に見舞に行くことにした。


 が。意地っ張りの彼にとって『心配だから見舞に来た』なんて台詞は死んでも言えなかった。
「珠名、……頼む。一緒に行こう」
 放課後。結局護は隣の教室に頭を下げに行った。
「お見舞……ですか」
 珠名は少し思案して……返事した。
「僕は構いませんが……そんなに遅くならずに済むんでしたら……」
「有難うっっ!」
 珠名はきょとっと護を見ていたが、やがてにっこり微笑んだ。
「良かった。……護さん、高瀬さんのことほんとは嫌いな訳じゃないんだ」
 天使の笑顔。
「鞄の支度してきますから、待っててもらえますか? 後、家に電話もしたいんですが……何処にいます?」
「……教室、1Aの」
「判りました」
 こうして、二人は仁巳の家へ向かった。
「仁巳さんの家ってどちらなんですか?」
「俺のうちの向かい。……でっけー家でさ……俺、ちっちゃい時よく不法侵入して仁巳の親父さんに怒られた」
「ふーん……護さんちの近くってことは……うちからも割と近いのかな?」
「そだな。お前のうちから、俺のうちまで十分くらいだったから……」
「そんなもんですか?」
「ん。お前、俺より足早そうだし……」
「そんなことありません」
「え……だって、あのタイムは……」
「僕、持久力ないんです」
「成程……」


 十五分後、二人は仁巳の家の前に立っていた。
「な?」
「本当だ。すごいや……」
 珠名の声が少しうわずってる。
「同じ金持ちでも、あいつの家はうちの学校の奴等より1ランク上だからな」
「高瀬財閥の……一人息子なんですよね……」
 庭を抜け、扉の前に立ち──恐る恐る、呼鈴を押した。
 三秒程してから、機械変声した声が聞こえた。
「どちら様でいらっしゃいますでしょうか」
「高校の同級生の片桐と秋夜と申しますが……仁巳君は御在宅でしょうか」
「少々お待ち下さいませ」
 インターフォンの声が途切れた。
 『少々』は少し長めだった。──右袖を引っ張る気配がする。
「……何恐がってんだよ」
「──だって……こんな大きな家……」
「同級生の家だろ」
「……けど」
 再びインターフォンが入った。
「──坊ちゃまは二階の一番左の南向きの部屋で休んでおります。どうぞお入りになって下さいとのことです」
 扉が開かれた。
 玄関に入り階段を上ろうとすると、
「お客様、こちらで御座居ます」
「あ、はい……」
 お手伝いさんに案内されて、二階の端に連れられた。
 板張りのドアをお手伝いさんがノックする。
「坊ちゃま、御連れ致しました」
「通してくれ」
 聞き覚えのある声がした。
 お手伝いがドアを開け、部屋の中へと手を差し伸べる。
 ついつい乗せられて、お手伝いさんに会釈してしまった。
「片桐っていうからまさかと思ったけど──こんな恰好で済まないな」
 寝巻姿で体を起こし、仁巳はベッドの上にいた。
「秋夜くんも一緒か……有難う。楽にしてくれ」
「いえ……僕はついてきただけですから」
「え……?」
 仁巳が怪訝そうな顔をする。
「余計なこと云うな、珠名っ!」
「だ……だってっ」
 仁巳は最初唖然としていたが、やがて大声で笑い出した。
 思わず珠名の襟首を掴んでしまっていた護と半泣きになっていた珠名が同時に仁巳の方を向く。
「……何が可笑しい」
 護は珠名の襟首を放し、仁巳の方に詰め寄った。
「護さん、ご病気の方に」
「これの何処が病気だっ、えっ?」
 止めようとした珠名の声も、護の怒声で引っ込んでしまう。
「大体な、この俺がだ、事もあろうに、お前を、わざわざ心配してやって……それでこの忙しい中、わざっわざ見舞に来てやったと言うのにだ、お前はそういう、恩を仇で返すような態度をだな、とるつもりなのかっ?」
「何か、……あったのか」
 真剣な護の声に、ようよう仁巳の目も真剣味を帯びてきた。
「まぁ……な」
 後ろの方を見遣る。
 珠名が不思議そうに二人を見ていた。
「秋夜くん……ちょっと悪いけど、お茶持ってきてくれるように頼んできてくれるかな。──廊下を歩いていればお手伝いさんが見つかるだろうから」
「はい」
 静かにドアが閉まった。
「……あれじゃすぐ戻ってきてしまうんじゃないか?」
「俺は、あの子がお茶入れるの手伝う方に賭けるよ」
 護は少しぼんやりした視線を病人に向け、やがて焦点を合わせると仁巳をねめつけた。
「嫌な奴だな。性格見越して行かせるなんて」
「……ああ」
 仁巳の声はいやに渇いていた。
「俺も、こんな『僕』が嫌いだ……」

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